君は子取り婆さんを知っているか

君は子取り婆さんを知っているか。君はどう生きるか的な質問でもないし、君は生き延びることがでるか的なガンダム的な話でもない。

 

僕がこの世で生を受けた名古屋市北区の団地。昔の記憶を辿っていると4歳までソコにいた記憶がある。今調べてみると「市営団地城北荘」

4歳だったメイナン少年はもうその当時から「じょーほくそう401」と言える神童ぶりを発揮していたと証言は受けている。

どうやら1967年の高度成長中期から末期1971年に建てられた「ナウでヤングなハイソな集合住宅」の一棟で現在はほぼほぼURによって取り壊されて再開発が進んでいるが、なぜかここの一棟だけ残っている。

こうみるとなかなか趣がある建物で。城北荘の殆どがアイの字型たったにもかからず、この棟だけコの字型なのだ。多分このコの字型が耐震構造に強いのか、伝説の立ち退かないおじさんがいるのかわからないが残っている。

 

この近くに「柳原商店街」という、こちらもかなり昔からの商店街がある。ちなみにまだある。城北荘は当時21棟あったそうだから殆どの城北ニストの台所をここが潤していたんだと思われる。

 

そしてここらで流行ったのが「子捕りばばあ」なのだ。

今で言う都市伝説や言うことを聞かない子供に脅しを掛ける意味合いで、親が

「言うこと聞かないと子取り婆あに渡す」

と言って団地の外に放り投げては泣かすと言う荒行だったんだけど、今考えたら酷い話である。

 

で、調べてみると「子取り婆」の伝説って1873年の話がヒットする。

 

以下引用元

blog.skymarine.biz


 寛延百姓一揆から、123年後の明治6年(1873)6月26日夕方、三野郡下高野村(現三豊市豊中町)において、髪の毛が伸び放題で挙動不審な女性が現れ、幼児を奪って逃げようとする事件が起きました。この事件は「子取り婆」が現れたという流言となって、たちまち近隣の村々に広がりました。折しもこの頃、民衆は国の兵役を「血税」と称していることを誤解し、徴兵検査により国から血を採られると思いこみ、不安感を抱いていました。民衆の不安感に「子取り婆」の流言が火をつけ、数千人規模に膨らんだ群集が、竹槍を揚げ、税の軽減や徴兵の反対などを要求して、西讃地方の村々へ次々と進撃し、官と名のつくものを攻撃してゆきました。侵冠(しんこう)された村々は130ヶ村、焼き討ちされたヶ所は役場、役人宅、学校など約600ヶ所に及びました。騒動の参加者は総勢4万人を超え、うち3万人が三野、豊田郡の者といわれています。
我が四箇地区も山階の蓮忍寺が、本堂を村役場に庁舎として貸していた為放火され、消失しました。
問題の、子取婆さんは、阿野郡国分村(現高松市国分寺町?)の農業、与乃助の孫娘、ノブという三十七八才の婦人で、自分の二人の女子が溜池に落ちて溺れ死んだので、精神に異常を来したため、所変われば良くなるだろうと、親族の者がこの下高野に女中として住み込ませていた。このノブ婆さんが付近で遊んでいた二少女を見るや否や「あゝ私の子供二人がここに居た」とて両脇に抱えて走り去ろうとした。それを見た里人共が「子取婆さんが子供をさらって逃げていく」と絶叫した。人々はこれを聞くや鍬・竹槍などひっさげて駆けつけ、狂婦を捕らえて叩きついに刺し殺してしまいました。
この騒動もやがて高松の軍隊を以って終結しましたが、後の裁判の結果、死刑七人、懲役五十六人、その他の罪に処せられた者一万六千五百九十人で、死刑の執行は丸亀塩屋にて十二月二十日より毎日一人づつ行ったということです。


なぜ香川県の都市伝説「子取り婆」が100年後の名古屋市北区で流行ったのか、かなり興味がある。